「大丈夫」をめぐって-1

このブログに少し前に書いた記事に、「学校に行かなくても大丈夫」というのは、「学校に行かなくても(将来が)大丈夫」と言っているわけではなく、別の次元で大丈夫と言ってきたのではないか、という主旨のコメントをいただいた。

これはその通りで、不登校にかかわる人のなかで言われてきた「大丈夫」というのは、いわば存在承認の言葉であって、業績承認とは別の価値尺度からの言葉だったように思う。たとえば、絵本作家の五味太郎さんは、次のように語っていた。

――学校に行かなくてもそうですけど、他人とちがう生き方をしていると、やたらに不安がられたり、心配されますよね。

そういうとき、誰かほかに「大丈夫」って言ってくれる人がいるとちがうんだよな。これが一人いるかいないかで、けっこうちがう。俺のまわりは、けっこういたな。「大丈夫だよ、おまえ。学校行くヒマあるんなら競馬行こう」みたいな(笑)。大丈夫じゃないんだよね、全然(笑)。だけど、その「大丈夫」は、社会保障とかそういう意味じゃないよな。「なんか生きてけるよね」っていう感じ。(全国不登校新聞社編『この人が語る不登校』講談社2002)

「なんか生きていけるよね」というのは、生に対する根拠のない信頼で、存在承認というのは、条件つきではなくて無条件だからこそ、存在を受けとめる承認になりうるのだろう。そういう「大丈夫」に対して、「でも、実際問題、将来はどうするんだ」とか「逃げてもいいって言うけど、逃げた先の保証もなしに言うのは無責任だ」とか言われることもままあるが、そういう人は、このあたりがゴッチャになっているのではないかと思う。しかし、根拠なく生を信頼するというのはとても難しいことで、なかなか、自分自身のことさえ信頼できない。多くの不登校の子どもを持つ親は、子どもが学校という業績承認の場から外れてしまったがゆえに、子どもの「ありのまま」を受けとめることを突きつけられてきたのだろう。「学校に行かなくても大丈夫」という言葉は、そういう親たちから、痛みとともに語られてきたものだったように思う。

しかし、不登校にかかわる人たちのあいだでも、「大丈夫」という言葉は、ズレてしまってきたように思う。もともと、当事者に向けて語られるときは存在承認の言葉だったものが、世間に向けられて語られるとき、「大丈夫」という言葉は、業績承認の言葉へとズレてしまってきたのではないだろうか。つまり、学校に行かなくても、将来、進学や就職はできるから大丈夫、というように。

フリースクールなどが業績承認の場のひとつとなって、ある程度は社会に認知されるようになった一方で、子どもや若者の生きづらさが深まっているように感じるのは、人の存在を根拠なく信頼するまなざしが薄れてきているからではないだろうか。


●「ありのまま」なんて、どこにもない。

しかし、「ありのまま」の自分なんてどこにもない、業績承認ではない存在承認なんて、ウソくさくしか感じられないということも、子どもや若い人からずいぶん聞いてきた。「自分の顔はぜんぶが仮面で、どこにもほんとうの顔なんてない」という人もいた。五味太郎さんが経験したような「大丈夫」のまなざしは、社会からどんどん消えてしまって、家族のみに縮減したあげく、いまや多くの子ども・若者にとってはリアリティのないものになっているのかもしれない。それでも、ある時期までは、ある種の悲鳴のようなサインとして、自分のむきだしの存在を親や周囲にぶつけるようなことがあったように思うが、サインというのも、受けとめられるという期待があってこそ出せるものだろう。その期待すらなくなってしまったとき、存在承認を求める気持ちは「解離」するほかなくなるのかもしれない。

不登校やひきこもりの界隈で「居場所」と言われてきたものは、ゆるやかな存在承認の場で、家族などの肩代わりはできないけれども、弱いつながりのなかで、人の存在を受けとめる場になってきたのではないかと思う。ただ、そのバランスを保つのは難しくて、特定の人が独占するのではなく、開かれつつ、さまざまな矛盾や葛藤を抱えながら、やっていく必要がある。あるいは、参加者どうしでも、近づきすぎると、とたんに苦しくなったりする。そういう「失敗」をくり返しながらも、そこで醸成されていくものが「居場所」の土壌をつくっているように思う。近づきすぎない、かといって見放さない。助けることは難しくても、その人の事情はわきまえ続ける。そういう「大丈夫」を分かち合えるようでありたい。

また、業績承認は個人的なものだが、存在承認は共同的なものでしかあり得ない。「大丈夫」な共同性をどう培っていくのか。そのためには、それぞれの場における知恵や工夫や葛藤や失敗を分かち合っていくことが必要なのだと思う。


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