自分の足下の負の歴史を見つめられるか――『福田村事件』を観て

映画『福田村事件』を観てきた。福田村事件は、関東大震災に際し、朝鮮人と疑われた香川県からの薬の行商人が自警団などによって襲撃され、9名(胎児も含めれば10人との説もある)が殺害された事件だ。映画では、事件の背景をていねいに描いていた。事件は偶然、単発に起きたわけではなく、メディアの責任を含め、事件を醸成してきた社会背景や体質がある。そして、その社会の体質は、いまも変わらないように思う。

映画や事件については、いろんな人が書いていると思うので、ここでは、監督の森達也の言葉から、自分の足下の問題に引き寄せて考えてみたい。

以下、NHK「クローズアップ現代」2023年8月30日放送より書き起こし。

――映画で加害側を描こうとした理由は?

もちろんやったことは裁かれなければならない。それとは別に、加害側も同じような人間であり、同じような感情があり、同じような営みがある。いざ、ことが起きたときに、僕たちはそれを忘れてしまう。加害側をモンスターにしてしまう。そのほうがわかりやすいんですよね。加害側は悪、加害される側は善、この構図にしておけば、とりあえずは安泰だし楽だし、でも加害側にはやっぱり大きなメカニズムがあり、理由があり、だからしっかりと検証するのであれば被害側ではなくて加害側ですね。

――個を保つために必要なことは?

集団に帰属することは人間の本能ですから、それはどうしようもない。これは大前提です。そのなかで埋没しない、集団を主語にしない。おおぜいの人を主語、つまり我々とか僕たちとか私たち、あるいは集団の名称、会社であったり、NPOであったり、町内会でもいいです、こうしたものは主語にしない。リテラシーですよね。集団のなかの情報は、それに対しても疑いの目を向ける。(略)そういうかたちで、情報に対しては信じこまない。多層的なんです。多重的で多面的です。ちょっと視点をずらせば、ちがうものが見えてくる。その意識を持つこと。それは僕はリテラシーの一番の基本だと思っています。

――負の歴史から何をに学ぶべきか?

歴史は何のためにあるかというと、僕は失敗の歴史を学ぶためにあると思うんです。なぜこの国はこんな失敗をしたのか。なぜ自分たちはこんな過ちをしてしまったのか。それを学ぶことで国だって成長できるはずだと思います。本来であれば教育が、メディアが、そして映画も負の歴史をしっかりと見つめなければいけない。反発が来るかもしれないとか、そうしたような不安や恐怖が先に立ってしまうと、どんどん消えていってしまっている。これは本当に不幸なことで、負の歴史をしっかりと見てもらえればと思っています。


また、森監督には、私も20年ほど前にインタビューさせてもらったことがある。そのとき、森監督はこんなことを語っていた。

組織や共同体がいちばん円滑に進むのは、白黒を分けて敵をつくることです。組織の内側にいる人間にとっては、それがラクなんです。その構造にはまってしまうと、なかなか抜けられない。そのベースにあるのは、恐怖感、不安感です。組織から外れた人を攻撃するのは気持ちいいし、それによって内側にいる人の帰属感、安心感を高めている。そうすると、安心感を保つためには、常に敵を探し続けることになる。だから、組織とか共同体にとっては、異物を敵として排除するのではなくて、どう受けいれられるかが問われるんだと思います。
(中略)
日本社会は、昔から異物を疎外する傾向がありますが、でも、昔は“村八分”で、二分は残したんです。いまは、いわば“村十分”ですからね。しかも、それが善意でしょう。悪意は暴走しませんが、善意は暴走するんです。だから、善意は怖い。”
(全国不登校新聞社『Fonte』174号/2005年7月15日)

森監督の言葉を、いくつも引用したが、ここで考えたいのは、自分に引き寄せてみてどうか、ということだ。福田村事件のことであれば、昔のことであったり、自分が直接かかわってないものであったりして、距離を置いて考えられるかもしれない。しかし、自分の足下の問題についてはどうだろうか。

たとえば、東京シューレ性暴力事件について自問したい。

加害者個人、あるいは東京シューレだけをモンスター=悪にしてはいないか。しかし、事件は偶発的に起きたものではなく、事件が起きる背景や体質の問題があり、それをきちんと検証しなければならない。

事件について考えようとするとき、集団を主語にしてはいないか。自分を集団に埋没させてしまってはいないか。反発などをおそれて、口をつぐんではいないか(私なりに一個人として発言に努めてきたつもりではあるが、こうしたおそれや抑圧と無縁だったわけではない)。

しっかりと見つめるべき負の歴史を、不安や恐怖心から消したい、逃げたいと思ってしまってはいないか。

自分のいる組織や集団においても、問題が起きる可能性は常にある。組織の体質はどうか。異物を排除することで、帰属感や安心感を得ていることはないか。あるいは、事件や組織の問題だけではなく、自分自身の過去とちゃんと向き合えているか。

誤解のないように申し添えれば、それは被害者に背負わせる問題ではない。仮に被害者が加害側=悪と認識したとしても、それで「とりあえずは安泰だし楽」なんてことはまったくないだろうし、被害者が加害の背景までを考えなければならないことはない。それは、第一には加害側の責任であり、関係者や周囲が考えなければならない問題だ。それができていないとき、問題は被害者へ背負わせたままとなってしまう。東京シューレ性暴力事件が、いまなお未解決なのは、私を含めた周囲の問題、責任だ。

また、メディアの責任も問われるべきだろう。ジャニーズ事務所の性加害事件においても、長年にわたって、メディアが黙殺してきたことの問題が問われているが、東京シューレ性暴力事件においても、同じような構図はあるように思う。

負の歴史から学ぶというのは、たんに過去の問題を考えるということではなく、いまの自分の足下を問うということだろう。そうでなければ、歴史はくり返してしまう。

加害側にいたにもかかわらず、責任を果たせていないひとりとして、それを恥じつつ、けっして事件を過去のこととして葬り去ることなく、負の歴史をきちんと見つめ、考え続けていきたいと、あらためて思う。 


◇付記(2023年9月9日)

本ブログ記事について、東京シューレ性暴力事件の被害者の方から、森達也氏は別の性暴力問題について、二次加害をし謝罪をしていないとの指摘を受けました。

別の性暴力問題とは、映画『童貞。をプロデュース』の出演者が、撮影の過程で被害に遭ったと告発している問題で、それに対し、森氏は下記のツイートをしており、その後、被害者からの反論に応答がないということのようです。

被害者の方のツイートは下記。

本件については、まったく知らなかったため、事件の詳細は把握しきれていませんが、本記事でも書きましたように、負の歴史と向き合うというのは、自分の足下の問題と向き合うことこそが大事だと考えており、森氏も然りだと思います。本記事が二次加害の拡大につながるのであれば削除するべきかと思いましたが、現時点では、むしろ、こうした指摘があることを明記したほうがよいかと判断し、以上を付記します。

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