「済まない」ことを考え続けるために
あやまちを認める、あやまる、ということは、なかなか難しいことで、あやまったところで解決には結びつかず、ますます問題が悪化してしまうこともある。おそらく、スッキリ解決するということはまれで、謝罪してスッキリしたいと思うのも身勝手にすぎず、スッキリしないものを、抱えてしくしかないということもあるのだと思う。
和辻哲郎(哲学者)によれば、私たちが日常的に謝罪の言葉として使う「すみません」という言葉は、「済みません」「済まない」ということで、負債という概念に関係しているそうだ。相手からの信頼を裏切ってしまい、すべきことをしていないがゆえに「済まない」という意識になる。(『倫理学』)
古田徹也『謝罪論』は、このあたりを出発点としながら、あやまるということについて、さまざまに考えていた。ちょっと長くなるが、何カ所か、抜粋して紹介したい(上記の和辻の話も同書より)。
もしも、謝罪という行為の目的が、自分がもたらした損害を埋め合わせることに尽きるとするならば、その目的ははじめから失敗を運命づけられている。(中略)自分が相手に与えてしまった損害を元通りにすることができるケースは少ない。どんな仕方で償っても完全には済まない――償いは完遂できない――のだ。言い換えれば、多くのケースで償いとは不完全な修復を意味せざるをえないということである。謝罪という行為を通して我々は、この点を確認(想起、説明)してもいるのである。
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謝罪の定型句に「ごめんなさい」や「Excuse me(お赦しください)」という言葉が含まれることからも明らかなように、謝罪にはしばしば、相手に対して赦しを請う意図が込められている(あるいは、そのように相手に解釈される)。被害者が加害者に対する一切のわだかまりを解消させ、事件や事故が起こる以前の人間関係に戻ること――あるいは、それ以前は何の人間関係もなかった場合に、元の無関係な状態に戻ることなど――は、言うまでもなく難しい。とはいえ、加害者をそれ以上咎めずに済ませる、という程度の意味で「赦し」というものをさしあたり捉えるならば、謝罪が赦しの実現の重要なきっかけとなることは、ある程度期待できるだろう。(中略)謝罪したからといって赦されるとはかぎらない。だが、謝罪が許されること、すなわち、謝罪を謝罪として相手に受けいれてもらえることが、赦しの実現のための重要なターニングポイントであることはたしかだ。(中略)謝罪――および、その一環としての償いの約束と履行――は、被害者の物心両面の損害が修復され、受動的な混乱状態や無力感に苦しんでいる状態から回復し、状況に対する一定のコントロールを取り戻す、その手助けとなりうる。そして、多くの場合、その延長線上に「赦し」という契機が位置づくのである。
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事件や事故に巻き込まれた人の人生は、それ以降大きく変わってしまう。生活の多くの部分で「被害者」という存在であることを余儀なくされ、災難の記憶や負の感情に繰り返し苛まれ、裁判などに時間や労力を奪われ、場合によってはマスメディアやソーシャルメディアへの対応で疲弊する。身心ともにその事件や事故に否応なく釘づけになり、囚われてしまう。本来は、自分がずっと大切にして営んできた生活や取り組みがあったのに、その事件や事故がどうしても心の中心に居座ってしまう。それゆえ、加害者と向き合い、その謝罪を受け入れ、相手を赦すことは、被害者が心の区切りをつけ、新しい人生を歩み出すための重要なきっかけとなりうる。ただし、注意すべきなのは、赦しはときに周囲の圧力によって促されてしまうということだ。たとえば、加害者が痛々しい土下座を繰り返したり、職を失うなどの強い社会的制裁を受けたりしたことに感化された第三者が、被害者に対して「これだけ謝ったのだから(これだけ償ったのだから)もう赦してやりなさいよ」という類いの圧力を向けることがある。あるいは、その種の赦しを迫る空気が、被害者の周囲で醸成されることがある。また、赦しの次元についても注意する必要がある。赦しがまさに被害者の心の区切りとなるには、相手へのそれ以上の刑罰や賠償を求めないというだけでは十分とは言えない。それがたとえ周囲の圧力によるものではなく、自分の意志によるものだとしてもだ。なぜなら、行動だけではなく感情の次元で、相手をこれ以上咎める気にならなくなる――相手に対する怒りや憎しみから解放される――という状態に至ってはじめて、相手を心から赦したことになるからだ。問題は、そうした次元での赦しは被害者の意志によって自由自在にもたらされるものではない、ということである。愛そうと思っても愛せるとはかぎらないのと同様に、赦そうと思いさえすれば赦せるわけではない。感情とは自ずと湧き出てくるものであって、完全には自分の自由になりえないのだ。
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たとえば、重大な損害を被った被害者やその家族などが、加害者に対して謝罪を要求するときには、上辺だけの空虚な定型句を求めているわけではない。彼らは加害者に対してたんに刑罰に服するとか賠償するというかたちで責任を負うだけではなく、責任を感じてほしいと願う。自分が何をしてしまったのか、自分が奪ったものがどれほど大事なものだったかを理解し、身に染みてほしいと願う。つまり彼らは、容易には変化しない内面のそうした変化が加害者にもたらされることを求める。そして多くの場合、その変化を認めるとが赦すことの重要な条件となる。
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実際のところ、相手からの謝罪に対して拒絶でも受け入れでもない仕方で応答するというのは、非常に多くの場面で見られるものだ。(中略)いずれにしても重要なのは、我々は謝罪に対して、〈受け入れる/受け入れない)という二者択一のかたちで常に応答しているわけではない、ということだ。そうやって白黒をつけるには、我々の他者との向き合い方も、因果関係や持ち場や責任などについての捉え方も、あまりに微妙で不明確な場合が多い。容易には割り切れないこの現実を、そのなかで生活する我々の関係や心情の複雑さを、謝罪を起点にしたコミュニケーションの諸相は反映しているのである。
引用ばかりが長くなったが、引用にとどめ、考え続けていくための備忘録としたい。

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