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「済まない」ことを考え続けるために-2

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 「済まない」ことを考え続けるための備忘録のつづきとして、西井開『転落男性論』の一部を抜粋したい。同書は男性論で、ホモソーシャルのしんどさや社会的孤立など、男性が直面するさまざまな困難や葛藤を取り上げているが、そのなかで、DVなどの加害をした男性がなぜ加害を受けとめられないのかという問題や、バイスタンダー(居合わせた人)のあり方などについて論じられていた。また引用ばかり長くなるが、そのあたりを紹介したい。  現行の社会構造はマジョリティを「標準」として形づくられているため、非被差別部落出身者や、白人や、男性といったマジョリティ集団は、制度の壁に阻まれたり、その存在そのものを問われたり、その結果自分に対して否定的なまなざしを向けたりする機会が、マイノリティ集団に比べて圧倒的に少ない。ひっかかりを覚えることなく生活していたはずが、突然加害者として名指され、自身が拠り所としていた「正当性」の柱が崩壊する。その動揺。批判の声は慣れ親しんだ世界とは異なる世界の言語のようで事態が飲み込めず、当然うまく応答することもできない。そのうえ、自身の日常そのものが抑圧構造の上に成り立っているという事実を突きつけられ、加害者としてのラベリングがどこまでもついてきて、いつ終わるかわからない自己の問い直しの中に追い込まれていく。 *  差別性を指摘された男性は複合的な恐怖に呑まれており、生半可な介入では恐怖を煽り、むしろ抵抗を引き出してしまうかもしれない。さらに厄介なのは、加害者が被害者意識を抱き、自身の潔白と被害者非難を周囲に喧伝する場合である。その必死の言明を真に受けたバイスタンダーが、詳細な情報を知らないにもかかわらず、加害者の擁護に向かうことがある。(中略)  ケイト・マン( Manne 2018=2019 )は、こうした加害男性を周囲の人間が擁護する現象、とりわけ過剰な同情を示す現象を「ヒムパシー(him +empathy)」という造語で表している。ヒムパシーは白人の健常者など多くのマジョリティ性を有する男性や、優秀な業績を修めている男性に向けられる。ヒムパシーを発揮する周囲の人は、その男性を罰することを躊躇するだけでなく、男性に抗して証言を行う女性を信じることさえ躊躇するという。加害は「本当の悪魔」しか行わないという信じ込み、歴史的な下位集団(マイノリティ)の証言に向けられ...

「済まない」ことを考え続けるために-1

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あやまちを認める、あやまる、ということは、なかなか難しいことで、あやまったところで解決には結びつかず、ますます問題が悪化してしまうこともある。おそらく、スッキリ解決するということはまれで、謝罪してスッキリしたいと思うのも身勝手にすぎず、スッキリしないものを、抱えていくしかないということもあるのだと思う。 和辻哲郎(哲学者)によれば、私たちが日常的に謝罪の言葉として使う「すみません」という言葉は、「済みません」「済まない」ということで、負債という概念に関係しているそうだ。相手からの信頼を裏切ってしまい、すべきことをしていないがゆえに「済まない」という意識になる。(『倫理学』) 古田徹也『謝罪論』は、このあたりを出発点としながら、あやまるということについて、さまざまに考えていた。ちょっと長くなるが、何カ所か、抜粋して紹介したい(上記の和辻の話も同書より)。  もしも、謝罪という行為の目的が、自分がもたらした損害を埋め合わせることに尽きるとするならば、その目的ははじめから失敗を運命づけられている。(中略)自分が相手に与えてしまった損害を元通りにすることができるケースは少ない。どんな仕方で償っても完全には済まない――償いは完遂できない――のだ。言い換えれば、多くのケースで償いとは不完全な修復を意味せざるをえないということである。謝罪という行為を通して我々は、この点を確認(想起、説明)してもいるのである。 *  謝罪の定型句に「ごめんなさい」や「Excuse me(お赦しください)」という言葉が含まれることからも明らかなように、謝罪にはしばしば、相手に対して赦しを請う意図が込められている(あるいは、そのように相手に解釈される)。  被害者が加害者に対する一切のわだかまりを解消させ、事件や事故が起こる以前の人間関係に戻ること――あるいは、それ以前は何の人間関係もなかった場合に、元の無関係な状態に戻ることなど――は、言うまでもなく難しい。とはいえ、加害者をそれ以上咎めずに済ませる、という程度の意味で「赦し」というものをさしあたり捉えるならば、謝罪が赦しの実現の重要なきっかけとなることは、ある程度期待できるだろう。 (中略)  謝罪したからといって赦されるとはかぎらない。だが、謝罪が許されること、すなわち、謝罪を謝罪として相手に受けいれてもらえることが、赦しの実現のための重要なター...

『マンガでわかる介助する人される人』を読んで

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知人に紹介されて、朝来おかゆ『マンガでわかる介助する人される人 重度訪問介護の24時間365日』を読んだ。著者は、自身が会食恐怖症や双極性障害Ⅱ型の当事者であり、家族の介助の担い手であり、現在は重度訪問介護の登録介助者として働いている。一読して、たいへんていねいに、誠実に、自分のことも、家族のことも、「障害」をめぐるさまざまな問題も、考え抜いて書かれていると感じた。 何より、著者は支援者/支援対象者と分けへだてるのではなく、自分自身の問題から社会のあり方までを、ひとつらなりのものとして問うている。「自分」に閉じた語りではなく、自分をさしおいて社会問題を語るのでもなく、自分の経験から、自分を通して社会を問うている。だからこそ、とても人に響く力がある。少なくとも、私にはとても響いた。 重度訪問介護制度のことは不勉強で知らないことが多く、たいへん勉強になった。教科書的なテキストを読んでもなかなか頭に入ってこないが、マンガでもあり、実際の経験上ぶつかった問題に即して具体的に描かれているので、するする頭に入ってくる。介助(介護)は、誰しもが直面する可能性のあることなので、多くの人に読んでほしい。 ●過去をふりかえって ここからは、本書を読んで想起された自分自身の経験を。 私は介助を仕事としたことはないが、学生のころ(90年代半ばごろ)、ボランティアで介助に入っていたことがある。当時は支援費制度ができる前で、介助は基本的にボランティアで担われていた( 『こんな夜更けにバナナかよ』 と同時代)。駅にエレベーターはないし、通行人に呼びかけて車いすを運んでいたし、混んだ時間に行くと、駅員から「こんな混雑時に来るな」と言われて、ケンカになったりもした。 事前に研修などがあったわけではないので、経験しながら学んでいたが、当事者からしたら、たまったものじゃないということも多かったと思う。つい、自分のよかれで勝手に動いてしまったり、本人をさしおいて交渉してしまったり、言葉が話せない相手だと、こちらの言うことがわからないと思い込んでいたり、失礼なことをたくさんしていたと思う。「障害者」が相手ではなくても、人とのかかわりにおいて、そういう失礼はたくさんしていると思うが(いまでも)、それが失礼なことだと気づく最初の機会は、このころにあったように思う(ごめんなさい)。 学生時代の友人は、まだ支援費制...