なたまめの話-2
なたまめの話、つづきを書こうと思いつつ、諸事雑事に追われて、ひと月も経ってしまった。そのあいだに、さやは30㎝ほどの大きさとなり、まさしくナタの様相を呈している。若いさやは、そのまま食べられるというので、小さいものは湯がいてカレーに添えたりして食べてみたが、コクがあっておいしかった。
断面はこんな感じ。
断面はこんな感じ。
50年60年、この掌は大根、人参、蕪、ほうれん草、キャベツ、果実、米を揉み、絞り、皮をむき、洗い、あらゆる食べ物がまずこの掌を通っていく。口で食べる前に、まず「掌」が食べているのだ。料理をする女、炊事をする女は、これをしない男に較べて大きな「得」をしている、と思う。(中略)長いながい年月の得が女の生命を延ばしているのかもしれない――私の思考も伸びていく。(『海を翔ける 草の根を紡ぐ旅Ⅱ』八月書館1998)
実に伸びやかだ。そして、大杉栄や伊藤野枝が拠っていたアナキズムという思想も、本来、そうした生命への信頼を土壌としていたように思う。生命が権力によって不当にゆがめられ、苦しめられていることへの抵抗とでも言おうか。ルイさんは、こうも言う。
私にとってこの50年は、自分の掌を見るように鮮明な記憶としてある。そしてそれは遠い昔の50年ではなく、アッという間の50年である。にもかかわらず、この国の、急激な変化というより退化と言いたいような無思想状態には憤りを感じる。私が無思想と呼ぶのは抵抗を喪っているということである。抵抗すべき人が抵抗しなければならぬ時に抵抗せず、野性を喪失していることである。災害災害とその対策ばかり言っているけど、この国の真の崩壊は抵抗力の喪失によって既に始まっていると思えてならない。(前掲書)
伸びやかな生命に拠って立ちながら、草の根をつむぎつつ、権力に抵抗していく。そんな伊藤ルイさんは、さまざまな植物を育てていたようで、なたまめも、そのひとつだ。どうも、えらい豆をいただいてしまったようだ。
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