「大丈夫」をめぐって-2

新型コロナウィルスの感染防止策で、「正常性バイアス」という言葉をよく聞くようになった。コロナに関して言えば、「自分だけはかからない」と思い込んで、感染防止がおろそかになってしまうことを言うそうだ。コロナにかぎらず、災害や事故などに対して、多くの人は「正常性バイアス」をかけて日常を過ごしている。常に感染症や災害や事故などを警戒して生きていたら、へとへとになってしまう。実際、長引くコロナの感染拡大で、多くの人がへとへとになってしまっているのではないだろうか。感染症対策としてはやむを得ないとしても、日常生活においては、「正常性バイアス」はむしろ必要なものなのだろう。

以前の記事で、信頼とは根拠がなくても信じられるということで、コロナで失われたのは世界への信頼ではないかということを書いた。そういう意味では、信頼というのも「正常性バイアス」のひとつなのかもしれない。いろんなことを疑いだしたらキリがないし、どこまでも自分を閉じていくほかなくなってしまう。基本的に自分は「大丈夫」という感覚は、生きていくうえでは不可欠なもので、それを「基本的信頼」と言ったりするのだろう。

その信頼がどこから生まれてくるのかと言えば、存在承認ということだろう。業績がいくら認められても、それは信用(根拠があって信じられること)にはなっても、信頼(根拠がなくても信じられること)にはならない。

ただ、存在承認というのは、常にあやういものでもあるように思う。ややもすれば、共依存や、転移・逆転移などの問題を引き起こしかねない。学校で居場所を失った人が、ようやく自分の存在を受けとめられると思っていた場で、その信頼が裏切られることになれば、その傷はたいへん深いものがあるように思えてならない。東京シューレにおける性被害事件においても、もしかしたら、そういう面はあったのではないだろうか。私がこの事件を考え続けているのは、これが例外的な事件ということではなく、ここにはフリースクールや居場所の関係者がよくよく考えなければならない問題があるように思うからだ。

そういう意味では、先に書いたことと矛盾するようだが、自分たちの活動は正しいと、みずからに「正常性バイアス」をかけてしまってはいけない。あるいは周囲が、基本的には正しいことをしている人たちなのだからと、「正常性バイアス」をかけてはいけないだろう。逆に、特定の団体や人の「異常」な問題として、「異常性バイアス」をかけて、他人事として叩くことも、不毛なことにちがいない。しかし、バイアスを取り払って、不都合な事実と向き合うのは、自分だけでは無理なことで、他者とともに考え合っていく必要がある。このあたりのことは以前にも書いたので、よかったら、お読みいただければと思う(【見たくないものを見るには】【不都合な事実と向き合うための作法】)。

信頼というのも、存在承認というのも、人と人との関係においては、とてもあやうく、そしてもろいものなのだろう。けれども、必要不可欠なものでもある。そのあたりについて、短絡化せずに考えていきたい。(つづく) 


コメント

  1. 山下さん、こんにちは。

     「正常性バイアス」は生活するうえで必要なものではあるが、かけてはいけないものもある、という言葉で表現していくといつの間にか言葉に飲み込まれて内容がズレていってしまいそうな難しい話を丁寧にされていて、興味深かったです。
     言葉尻をとるようなことなのかもしれませんが、気になったことがあります。
     「正常性バイアス」という言葉が一般にどういう風に使われているのか知りませんが、恐らく「正常性バイアス」は「かける」ものではなく「かかる」もの、「かかってしまう」ものではないでしょうか。そしてそれは適度にかけないというよりは適度にとっていく必要のあるもので、サングラスをとるときの「とる」、というよりは、疲れをとるときの「とる」のように、ほぐしたり、脱力する感じのものだと思います。落ちるというか。
     ああ、そうか。山下さんの言いたいことは、問題が起こった時「(正常性バイアスを)かけてはいけない」というようなことをと言われたり、思ったりしたら、何か具体的にヒヤリと思い出すことあるだろう、と。そしてそのヒヤリとすることに丁寧に応えていってはどうか、いく必要がある、ということでしょうか。
     

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    1. コメント、ありがとうございます。なるほど、たしかに正常性バイアスは自覚的にかけているわけではなくて、すでにかかってしまっているものですよね。だからこそ、日常を営めている面がある。けれども、時と場合によっては、外さないといけないことがあって、それは自覚的でないとできないことなんだろうと思います。それも、ふだんからの柔軟さがあれば、疲れをほぐすように、とることができるのかもしれないですね。

      ちなみに、「取る」という言葉を広辞苑で引いたら、ものすごく多義的でおもしろかったです。つかまえる、手に入れるという意味の一方で、除くなどの意味もあるんですね。不思議です。

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    3. 返信をありがとうございます。

      ゴチャゴチャした表現になりますが、「ハッと気がついて、何かそのことに対する見方が変わっていく起点になるようなそういう、なかなか起きない正常性バイアスが外れること」、それを起こす必要があるということを指摘しているのではなくて、「もっと手前の意味での正常性バイアスを外すこと」は自覚的にできるし、するべきだ、ということを指摘しているのだろうか、と思いました。

      連投を失礼しました。

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