「大丈夫」をめぐって-3

先の記事に対して、存在承認の場が減ってきているというのは「昔がよかったバイアス」ではないのか、という意見をいただいた。たしかに、バイアスといえばバイアスのような気もする。「いまどきの若者は」と同じような、年寄りのくりごとみたいになってはいないかと思うこともある。あるいは、昔のほうが存在承認の場が豊富だったとして、それを言われたところで、現在を生きている子ども・若者からしたら、自分たちへの否定にも聞こえるだろう。かく言う私も、年輩の世代に対しては、そういう反発を覚えてきたところもある。

ただ、ますます市場が拡大する社会にあっては、業績承認ばかりが肥大化し、存在承認の場はますます縮減してきているのではないかと、やっぱり思ってしまう。たとえば、学校にしても、業績承認ばかりが強まったことで、とても苦しい場になってきたのではないだろうか。学校だけではなく、あちこちで業績承認ばかりが肥大化して、存在の承認される場は家族のみに縮減していったあげく、それすらあやうくなっているから、多くの人が「生きづらい」と感じているのではないだろうか。

しかし、だからといって、過去の時代や古い共同体(あるいは家族)を美化することになってしまうと、それはたいへんあやういように思う。「親学」だとか、「母性神話」だとか、「父性の復権」だとか、「伝統的子育て」だとか、そういうものに簡単に結びついてしまう。あるいは、海外に理想を見てみたり、相互扶助を観念的に美化しすぎたり、純化された存在承認の場を求めてしまうのも、あやういものがあるだろう。どこかにユートピアがあるわけではない。

存在承認の場は、家族や古い時代の幻想に求めるのではなく、変に美化するのでもなく、自分の足下に生み出していくことが必要だろう。「居場所」だとか「子ども食堂」などがつくられてきた背景には、何かそういうものを求めるものが、人々のなかにあったからではないかと思う。そこにあるのは、ごはんをともにするとか、生活の一部をともにするような、ゆるやかなつながりであるように思う。それは家族の代替にはならないだろうが、家族ではない、ゆるやかな存在承認の場があることは、ひとつの可能性ではないだろうか。

ただ、それさえもが道具として利用されている面もある。それが、たんに癒やしの場としてのみ機能するのであれば、それはいまの社会のあり方を問う場ではなく、補完するだけの場になってしまう。近代家族がそうであるように、人が業績承認でがんばるための癒やしの場として、存在承認が業績承認のための道具になってしまうのであれば、そこにも希望はない。「居場所」は、それをひとつの足場としながらも、そこにかかわる人が、この社会のあり方を考え合い、問い直していく磁場でもありたい。そのためには対話が必要で、どのような対話の場を生み出していけるのかということが、それぞれの場で問われているように思う。そして、対話が成り立つためには、その根底におたがいへの信頼がなければならない。


●「大丈夫」であるためには

「学校に行かなくても大丈夫」から、つらつらと考えてきたが、人が「大丈夫」であるためには、制度的な生存権の保障も必要なことで、ここまで述べてきたような承認の話だけでは不足するだろう。また、人の存在を支えているのは、日々、食べているものでもあって、人と人との関係だけではなく、人と動植物との関係も問い直さないといけないだろう。それは自分たちの日々の生活を問い直していくことでもある。

くり返し言えば、ユートピアはどこにもない。過去やどこかの世界に虚妄の希望を抱くのではなく、頭だけで考えて絶望するのでもなく、ゆるやかに、しなやかに、矛盾や葛藤を抱えつつ、自分たちの足下を見直しながら、「大丈夫」を培っていきたい。

(まだ、いろいろ考えたいことはあるが、とりあえず今回はここまで。)

*先の記事に対しては、桜井智恵子さんからもTwitterで「存在承認を関係論だけで考えるとあやうい」といったコメントをいただいた。この記事がご指摘への応答になっていればと思う。

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