「鬼はソト」問題-1

今年の節分は2月2日だったそうだ。節分と言えば、「福はウチ、鬼はソト」の豆まきだが、はたと、ここにはかなり根深い意識が潜んでいるように思えてきた。

人類学者の中根千枝は、かつて、日本の書評には「ほめる書評」と「けなす書評」のふたつしかなくて、ふだんの会話でも、異なる意見が対話によって弁証法的に発展するようなゲーム的なおもしろさがない、というようなことを言っていた(『タテ社会の人間関係』講談社現代新書1967)。日本では、自分の所属する小集団の力が大きくて、その場の考えと個人がべったりいっしょになってしまっていることが多い。個人が資格によって契約として場をともにするのではなく、親分子分のようなタテの温情的な関係で場が成り立っているので、ウチ・ソトの意識がたいへん強く、ウチの人間に対しては徹底して守るものの、いったんソトに出てしまった人の言うことはまったく相手にしない。それゆえ、異なる意見どうしの対話のようなことが成り立たない。パワハラやブラック企業のような問題も起きやすい。そして、それは一部の企業などの問題ではなく、ほぼ例外なく、どこでも起きうる問題なのだろう。

社会運動においても、社会の問題をラジカルに問う一方で、自分の足下の場においては、異なる意見を抑圧し、排除してしまいがちだ。結果、その集団は同じような考えを持つ人のみの集まる場になって、個人と集団がべったりいっしょになってしまう。それは、いじめの構造と同じだと言っていいだろう。社会運動の場合、それが正しさを背負うぶん、よけいに排除を合理化してしまいがちで、エスカレートしやすい面もあるように思う。

「地獄への道は善意で敷きつめられている」という格言が思い出される。正しかったり、善意であるときほど、こうした構造の問題をわきまえないといけないように思う。たとえば、ある場で差別的な言動をする人がいたとして、それが差別だと指摘したり批判することは大事だが、その人をたんにソトに排除するだけでは、場の安全は保たれるようで、上記のような構造はかえって強化されてしまう。そして、その場が同質的になればなるほど、どんどん細かな差異が顕在化して、排除の傾向を強めてしまう。そうなると、「鬼」が増えていくばかりで、排除された側も、自分の考えをあらためるどころか、かえって強化することにもなりかねないように思う。

もちろん、何でも異なる意見に対して寛容であればよいということではない。きちんと問うべきことを問うことは必要で、相対主義であればよいということではない。ときには排除が必要になることもあるだろう。とりわけ、それが加害・被害の問題になった場合は、当事者間の対話だけでは解決できないこともある。しかし、場が同調か排除かに二極化してしまうことは問題で、そうさせないためには、ふだんから意識的に対話を生み出す努力が必要なように思う。しかし、どうもそのあたりは旧態依然としたまま、結局は、その場における中心人物が幅を利かせていることが多いように思う。自分自身への自戒も込めて言えば、とくに、その場において中心にいるような人は、自分と異なる意見に対して聴く耳を持っていなければならないと思う。あるいは、自分の感覚を自明視するのではなく、自分にはわからないことがあるというわきまえが必要だろう。

ただ、場というのは、人が集まってきて成り立つもので、一部の人の心がけだけでは、解決しないところがある。それを解決するには、場のルールなり形式をきちんと共有することが必要になってくると思うのだが、どうしても、日本の小集団においては、場の中心人物に判断をゆだねがちで、融通が利くぶん、ルールは形骸化して、その人の裁量次第ということになりやすい。50年以上前に書かれた中根千枝の本が、いまもってまったく通用してしまうことを考えても、この問題は根が深いのだろう。このブログでも、こうした問題についてくり返し書いているような気もするが、逆に言えば、くり返し意識し続けないと、やすきに流れてしまうように思う(自分自身が)。

ラジカル(根本的)な問いを持ちつつ、しかし、それを先鋭化させて排除の傾向を強めるのではなく、異なる他者と対話していきたい。そういう対話がなければ、どんな主張であろうと、それは閉じた小集団のアイデンティティ(同一性)を強化するものにしかならず、結局のところ社会を変えていく力にはならないように思う。


付記:同じ鬼のような存在でも、なまはげのように、家に迎え入れてもてなして、「来年もまた来てくださいね」と言って帰ってもらう風習があちこちにありますね。それは、ウチ/ソトの線引きを揺るがす存在を大事にしているのかも、と思ったりします。

>「鬼はソト」問題-2


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