安心と安全をめぐって

あちこちで、「安心・安全」が第一だと言われる。「安心・安全」は、どんな場合においても、誰にとっても必要なものだろう。しかし、よく考えてみると、安心と安全は相反してしまう場合もあるのではないか。たとえば、新型コロナウィルスをめぐって、感染予防策=安全対策が徹底的に求められている。しかし、それで安心かといえば、そうはならない。それは、何よりもそれで安全が確保されるとはかぎらないからだが、まわり中にウィルスがあるかもしれないと疑心暗鬼にならざるを得ないため、他者が信頼できなくなっているからでもあるだろう(このあたりは、以前にも書いた)。安全を求めても、安心にはつながっていない。むしろ安全を求めるほど、他者は疑わしくなり、マスクをしているかどうかなど監視の目は強まるし、逆に言えば、監視されているような息苦しさがあるから、炎天下の屋外で、人との距離が充分あっても、マスクを外せない人も多い。


●場の安全と安心は

コロナ対策はさておくとして、たとえば、東京シューレにおける性暴力事件が明らかになったことで、フリースクールなどにおいても、スタッフの倫理規定や研修、セーフガーディングなど安全対策の必要性が認識されるようになった。もちろん、それは必要なことで、これまで足りていなかったことでもある。性暴力だけではなく、いじめ、虐待、ハラスメントなど暴力は防止すべきで、場を運営するうえでの安全配慮は義務として求められるものだ。

しかし、安全のための約束事やルールは必然として、それを守る手立てとして、管理や監視を強めるばかりでは、安全は確保できても、安心にはつながらない。誤解をおそれずに言えば、かえって信頼感や安心感が損なわれてしまうことにもなりかねないのではないだろうか。また、あってはならないこと、起きてはならないこととして予防をはかるだけでは、いざ事態が起きたとき、きちんと向き合うことが難しくなってしまうようにも思う(なお、セーフガーディングの取り組みは、事態が起きたあとのことも含め、たいへんていねいに考えられている)。

当然のことだが、管理や監視は予防には役だっても、起きた事態に対して、その傷や信頼を回復することには役立たない。暴力は安全を壊すだけではなく、信頼や安心をも壊してしまう。しかし、その暴力を寛容度ゼロで力で抑え込むだけでは、暴力の再生産になってしまう。修復的対話において必要だと言われてきたのは、たんに加害者を処罰するだけで済ますのではなく、関係者全員がきちんと事態と向き合い、対話し、損なわれた信頼関係を修復していくということだろう(加害者の被害者性の問題については、ここでは措く)。

もちろん、損なわれた信頼関係を修復するというのは、たやすいことではない。また、まちがっても、被害者に対して、その努力を求めるものであってはならないだろう。たいへん難しいことだが、周囲が事態ときちんと向き合わなければ、信頼回復の道筋は見えてこないように思う。


●信頼感の悪用・誤用

また、性暴力やハラスメントにおいては、信頼感を悪用あるいは誤用したと言えるケースが多々あるのではないだろうか。そうした場合、それまでの信頼感が大きいほど、その傷は深くなる。そしてその傷は、加害者と被害者の関係におけるものだけではなく、その場全体の信頼をも傷つけるものだろう。なぜ信頼感を悪用・誤用してしまったのか、加害者は、そこをきちんと省みなければならないし、周囲は加害者個人の問題として片づけるのではなく、問題にきちんと向き合い、考えなければならない。そうした事態は(程度の問題はあるにせよ)、どんな場でも、誰においても起きうるもので、加害者だけを指弾して済む話ではない。それが場のなかで起きたものであれば、それまでの場のあり方も問われる。自分にはあり得ないと、他人事として済ませるとしたら、その無自覚さのほうがあやうい。あやうさを常に自覚しつつ、省察していかなければ、信頼感は力関係を発生させ、容易に支配関係へと転じてしまうだろう。


●安心と排他性

もうひとつ、別の観点から考えたい。「安心・安全」というのは、自助グループや居場所の活動においても古くから言われてきたことだろう。安心と安全が確保できていなければ、こうした活動は成り立たない。

自助グループや居場所などにおいては、同じ当事者どうしであるということが、安心感を生む面がある。同じような経験をしている、共感し合える、世間的な価値観から否定されたりしない。その安心感はとても大事なものだと思う。

しかし、同じ当事者といっても、人それぞれ状況や背景は異なるし、ひとりの人に別の当事者性が重なっていたり、変化していったり、固定的ではない面も多々ある。不登校に即して言えば、たとえば学校に行っていない子がフリースクールに通う一方で、学校にもどりたいと思うこともよくある。しかし、学校の外で学ぶことをアイデンティティの核にしているような場だと、そういう思いは言い出せなかったりすることもある。あるいは、ひきこもりの自助グループなどで、働き始めたという話や、職場での苦労の話は出しにくかったりする。ある当事者性では仲間だと思っていても、別の側面では価値観が異なっていたりすると、それが傷のように感じられることもある。しかし、共感を求めるあまり、共感にそぐわないような思いや考えが出せず、抑圧されてしまうと、その場は排他性を強めてしまう。

そして、排他性を強めた場では、力関係も固定化されやすい。そうなると、結果として安心感が損なわれる事態が引き起こされてしまう。おそらく、そうした事態は、「自然」に発生してしまうもので、無自覚にしていると、そうなってしまうものではないだろうか。そうだとすれば、自覚的に力関係を修正したり排他性を強めないようにする工夫やルールが必要で、それを言語化して、常に省みることができるようにしておくことが必要だろう。それは、管理者が一方的に管理するためのものではなく、分かち合っていくことが必要なものだと思う。あるいは、その場において力を持つ側のほうが、より自覚しなければならないものだろう。

暴力は防止する必要があるが、ズレや葛藤、もめることは、あってはならないことではなく、むしろ、そうしたことがあっても、ときに調整し、ときに距離を置いたりしながら、それでも排除にならないということが安心につながるのではないだろうか。あるいは力関係が生じてしまうことも含めて、生じることを前提に、そこでどういう工夫をし、いかに対話できるかが問われる。とはいえ、実際問題としては、なかなか、ままならないことも多いが、だからこそ、そこが大事なのだと思う。安心は、そうした絶えざる問いのなかにあるのではないだろうか。

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