『マンガでわかる介助する人される人』を読んで

知人に紹介されて、朝来おかゆ『マンガでわかる介助する人される人 重度訪問介護の24時間365日』を読んだ。著者は、自身が会食恐怖症や双極性障害Ⅱ型の当事者であり、家族の介助の担い手であり、現在は重度訪問介護の登録介助者として働いている。一読して、たいへんていねいに、誠実に、自分のことも、家族のことも、「障害」をめぐるさまざまな問題も、考え抜いて書かれていると感じた。

何より、著者は支援者/支援対象者と分けへだてるのではなく、自分自身の問題から社会のあり方までを、ひとつらなりのものとして問うている。「自分」に閉じた語りではなく、自分をさしおいて社会問題を語るのでもなく、自分の経験から、自分を通して社会を問うている。だからこそ、とても人に響く力がある。少なくとも、私にはとても響いた。

重度訪問介護制度のことは不勉強で知らないことが多く、たいへん勉強になった。教科書的なテキストを読んでもなかなか頭に入ってこないが、マンガでもあり、実際の経験上ぶつかった問題に即して具体的に描かれているので、するする頭に入ってきた。介助(介護)は、誰しもが直面する可能性のあることなので、多くの人に読んでほしい。


●過去をふりかえって

ここからは、本書を読んで想起された自分自身の経験を。

私は介助を仕事としたことはないが、学生のころ(90年代半ばごろ)、ボランティアで介助に入っていたことがある。当時は支援費制度ができる前で、介助は基本的にボランティアで担われていた(『こんな夜更けにバナナかよ』と同時代)。駅にエレベーターはないし、通行人に呼びかけて車いすを運んでいたし、混んだ時間に行くと、駅員から「こんな混雑時に来るな」と言われて、ケンカになったりもした。

事前に研修などがあったわけではないので、経験しながら学んでいたが、当事者からしたら、たまったものじゃないということも多かったと思う。つい、自分のよかれで勝手に動いてしまったり、本人をさしおいて交渉してしまったり、言葉が話せない相手だと、こちらの言うことがわからないと思い込んでいたり、失礼なことをたくさんしていたと思う。「障害者」が相手ではなくても、人とのかかわりにおいて、そういう失礼はたくさんしていると思うが(いまでも)、それが失礼なことだと気づく最初の機会は、このころにあったように思う(ごめんなさい)。

学生時代の友人は、まだ支援費制度ができる前に、施設から出たいという当事者といっしょに暮らし始めて、そこから事業所を立ち上げていった。その友人たちには数年前に会ったが、紆余曲折がありながらも、いまも続けているようだ。私は学生のころから不登校の運動にかかわるようになって、やはり紆余曲折ありながらも、いまもかかわっている。また、一方では、現在は福祉制度のなかで、非常勤でソーシャルワークの仕事もしている。


●制度ができても

この数十年の制度の進展、介助(介護)が仕事になったことの意義はとても大きい。ただ、一方では失われた面もあるのだと思う。介助(介護)は福祉職の人がやるもので、駅での移動のサポートは駅員がするものになった。仕事は制度の範囲内でしか動けないし、制度にないものはできないということになってしまう。もちろん実際には、本書にも描かれているように、個々の現場ではさまざまな葛藤や工夫があって、そのせめぎあいのなかで現実は動いているのだと思う。制度の知識が不足していることによって、できていないこともあって、制度を上手にコーディネートしていくことは大事だろう。重度訪問介護の制度は、ケアマネでも知らないことがあると書かれていた。

私が制度と制度外のところにこだわってしまうのは、不登校やひきこもりが制度外の問題としてあって、それゆえの難しさと豊かさがあると感じてきたからだ。ここでは、不登校やひきこもりについては、これ以上踏み込まないが、「障害者」の課題がそうであるように、たとえ制度化されたとしても、制度では解決できないものは残り続けるし、制度からこぼれるものを常に問い続け、動かしつづけていくことは必要だろう。

本書にもどれば、著者は、自身の経験から、その視野を持ち続けている。勝手ながら、そこに共感して、長々と書いてしまった。本の内容よりも自分語りが多くなってしまったのも、何か触発されてしまったのかもしれない。私の自分語りはさておき、本書に関心をもたれた方は、ぜひご一読を。

 * *

関連して、こちらも、おすすめです。

>野崎泰伸『「できなさ」からの倫理学』 

コメント