切り捨てたものは、なくならない。

長い年月、不登校は教育の一大テーマだった。しかし、近年はマスメディアで取り上げられることが増え、表面的な認知は広まる一方で、関心の深さはなくなっているように思う。当事者の語る言葉も、かつてと比べると、力を失っているように思える。ただ、かつても当事者の語りは、親の会やフリースクールなどの運動のなかで語られてきたもので、周囲の大人との関係のなかで語られてきた面が大きかった(私自身、そこに荷担していた)。そして、それはいまも変わらない。当事者の語りは、周囲の大人との関係のなかにある。

とすると、変わったのは当事者ではなく、大人側の言説の枠組みということだろう。おおづかみに言えば、それはマジョリティを問うものから、マジョリティに承認を求めるものになってきたように思う(もともと、後者の面もあったとは思うが)。

学校の求心力が強かった時代、不登校は異常視され、否定視されてきた。親の会やフリースクールの言説は、それに対するカウンターだったと言える。しかし、学校の求心力が弱まり、学校であろうと、どこであろうと、自立に向けてがんばっていればよい、という状況になると、カウンターの言説は力を失う。そして、そういう状況というのは、アイデンティティを再帰的につくりつづけないといけないということでもあって、そうしたなか、運動の言説はマジョリティを問うものから、不登校を多様性のひとつとしてマジョリティに認めてほしい、というものに変わってきたように思う。

不登校生動画選手権?

それを象徴する動きのひとつとして、今月(2023年7月)、全国不登校新聞社が実施している「不登校生動画選手権」をあげたい。選手権のテーマは「学校へ行きたくない私から学校に行きたくない君へ~ハンディがレアリティに変わる未来へ~」で、10代からTikTokの動画を募集、最優秀賞には賞金10万円を出すという(審査委員長はタレントの中川翔子氏)。審査基準は「不登校生ならではの独創性やインパクト」や「勇気・安心・感動を与える作品か」など。ちなみに「レアリティ」とは希少性があること、レア度が高いということだろう。

私は、こういうキャンペーンは、結果として苦しみを生むだけだと思う。不登校の経験が何かに活きることはあるだろうし、不登校から考えたことが言葉や表現になることは大事なことだと思うが、それを承認や評価のための道具してしまうのは、とても苦しい。また、不登校をアイデンティティ化してしまうのは、たいへんあやうい。

全国不登校新聞社は「今後も同様の大会をつくり不登校当事者の「晴れ舞台」を作っていきたい」としている。しかし、「晴れ舞台」とは何だろうか? マスメディアに取り上げられること、有名人に認められること、あるいはネットでバズることだろうか。一時的には、そうした経験は晴れがましいものとなるかもしれない。だが、自身の経験を、そうしたところで認めてもらうために語ってしまうと、それは別の深い抑圧をもたらしてしまう。そして、そういう抑圧はさまざまな問題を生んできた(東京シューレ性暴力事件にも、その側面はある)。それは不登校新聞の編集部もよく承知であるはずなのに、切り捨てたうえで、こうした企画を実施している。

現在の不登校新聞は、マジョリティに受けいれられやすい言説を加工する「御用新聞」に成り下がってしまったというほかない。現編集部は「不登校」を商品化=市場化することこそが社会に承認されることであり、よきことだと思っているのではないだろうか。自分たちが思っているだけならまだしも、そこに当事者を誘導することの問題は大きい。今後も同様の企画を続けるというのであれば、元編集長としては、何度でも苦言を呈したい。なぜなら、私自身がかかわってきた活動から生み出されてきた問題であって、私自身の反省でもあるから。

切り捨てたものは、けっしてなくならない。 

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