東近江市長発言をめぐって

 2022年度の不登校数は小中学生で約30万人、過去最多で10年前の2.5倍となった(ただし、「不登校」は長期欠席の一部で、長期欠席全体では約46万人となっている)。

不登校激増のなか、フリースクールなどの認知は広まり、2016年には教育機会確保法が成立し、学校復帰一辺倒ではなく、多様な教育機会を確保していこうということが言われている。しかし、一方では反動も起きている。

10月17日、不登校対策を議論する首長会議の場で滋賀県東近江市の市長が「フリースクールは国家の根幹を崩しかねない」「不登校の大半は親の責任」といった発言をした。これに対し、滋賀県フリースクール等連絡協議会が抗議をしたほか、フリースクール全国ネットワークなど3団体も連名で発言の撤回を求める意見書を出し、滋賀県のフリースクール関係者による署名運動なども起きている。

市長の発言は無知蒙昧かつ人権を侵害するもので、抗議するのは当然だ。市長は発言を撤回するだけではく、見識をあらため、謝罪をすべきだろう。

発言の問題については、すでに多くの指摘があるので、ここであらためて書くことはしない。ここで考えたいのは、抗議は当然として、だから多様な教育機会の確保でよいのか、ということだ。

教育機会確保法は、その成立までに、関係団体のあいだでも賛否が分かれた。その懸念のひとつは、義務教育民営化への懸念だった。実際、法律成立後、文科省「GIGAスクール構想」「COCOLOプラン」、経産省「未来の教室」「Edtech」など、さまざまな動きが起きている。教育機会の確保は、フリースクールなどよりも、教育産業による「個別最適化」した教育をICTを活用して進めていこうとする動きが大きな流れになっていると言っていいだろう。

また、文科省は、ひとり1台配布しているタブレット端末を活用し、毎朝、児童生徒にその日の気分を書きこんでもらうことなどを通じて不登校の兆候を早期に発見すると言っている(2023年1月31日文部科学大臣会見)。先行して、大阪府吹田市では、2022年度よりデイリー健康観察アプリ「デイケン」を使って、同様の取り組みを進めている。児童生徒から入力されたデータは、蓄積データとあわせて即時に解析され、心身の状態のリスクが高いと判定された場合は、教員のダッシュボードにアラートが表示されるという。

いまや「自主性」や「主体性」にも、あるいは「心」にまで評価のまなざしがはりめぐらされている。学校の外にも評価のまなざしは浸透し、休むこと、逃げること、拒否することは、ますますできなくなっている。常にがんばり続けることが求められ、勉強だけではなく、無限定にすべての活動が評価にさらされている。

また、抗議文にあるような、フリースクールなどで育った子どもが「国家の未来を担う」だとか、「社会人として働いたり家庭を持ったりしている」だとか、そういう言説はたいへんあやうい。対抗のための言説であるとしても、それは結果として問題を個人化し、生産性によって人を選別するような、市場に親和的なものとなってしまう。

同様の構図は、不登校や教育の分野にかぎらず、あるいは日本にかぎらず、あちこちで起きている。たとえば、フェミニズムにおいても、「多様性」や「選択の自由」を掲げ、女性の地位向上を謳うようなフェミニズムがある。そこでは一部の成功者を引き合いに、リーンイン(体制の一員になること)が目指されており、フェミニズムがエリート主義や個人主義になってしまっているという(こちらの記事【99%のために】も参照されたい)。

保守に対抗する側が、市場に親和的になって、社会の公共性や共同性を損ない、格差を拡大することに寄与してしまう。さまざまな社会運動が、そうした構図に呑み込まれてしまっている。

もうひとつ、フリースクールをめぐって忘れてはならないのは、東京シューレ性暴力事件について、関係者がきちんと向き合うことができず、二次加害を積み重ねてしまっているということだ(そのひとつにフリースクール全国ネットワークの検証問題がある)。そうしたなか、バックラッシュへの対抗だとしても、フリースクールを無前提に肯定するような語りは慎むべきだろう。

誤解のないように繰り返し言えば、今回の市長発言に対する抗議は当然のことで、そこに水をさしたいわけではない。しかし、抗議文などを見ると、上記の懸念を持たざるを得ない。

バックラッシュに対抗しつつ、市場化の流れにも対抗する。そのためには、それぞれの社会運動の「主流派」ではなく、そこからこぼれてしまうような問題意識を持つ人たちがつながりあって、考えていくことが必要であるように思う。

◇関連記事

コメント