カルトは「向こう側」の問題か

統一教会の件で、カルトの問題がクローズアップされている。92年~95年にかけて大学時代を過ごした私には、カルトや統一教会の問題は身近なものだった。大学では原理研究会(統一教会の学生団体)がサークルを偽装して勧誘活動をしていて、それと知らずに合宿に参加して入信する学生もいたし、マスメディアでも、霊感商法や芸能人の合同結婚式などが問題(話題?)になっていた。

サークル勧誘の問題をめぐって、原理研の人たちとは、何度か話し合ったこともある(サークル活動の統括は学生が自治的に行なっていたので)。直接、話し合うまでは、狂信的なおそろしい人たちで、話し合いなど成立しないように思っていたのだが、実際に会って話し合ってみると、ひとりひとりはとても誠実で謙虚な人たちだった。しかし、結局、話し合いは平行線で、「サークル勧誘は認められない」と突っぱねるだけに終わった。

一方で、原理研を問題視する学生のなかには、殴って追い出しただとか、暴力で排除する人たちもいた。カルトが問題なのはもちろんだが、暴力で排除するほうもカルトではないかと私は思っていたが、ちゃんと議論はできなかったように記憶している。

あるいは、当時のサークルのなかには、少数ながら学生運動のセクトの人たちもいた。その人たちも、ひとりひとりは「いい人」なのだが、組織となると、えげつない暴力をふるうこともあり、私自身は直接、暴力をふるわれたことはなかったが、なぜ、組織となると人は暴力的なことも可能になってしまうのかと、不思議でならなかった。

統一教会に入信した人も、セクトに入った人も、「向こう側」の人ではなかった。きっと、大学まで進学したはいいけれども、この社会に疑問を持ち、そのまま進んでいくことができなくなったのではないだろうか。そこで、たまたま出会った場が、宗教団体であったり、セクトだったりしたのだと思う。私の場合は、学生新聞のサークル(そこはノンセクトの学生のたまり場でもあった)に入り、そこでの取材活動でフリースクール東京シューレに出会い、大学を中退してスタッフとなった。親にそのことを伝えたときは、父親から「なんだ、それはオウム真理教か!」と言われたのを覚えている。ちょうど地下鉄サリン事件が起きたころだったので、親からすれば、そう思うのも当然だっただろう。

しかし、そもそも一般とされる道を歩んでいる人だって、多分にカルト的ではないだろうか。ものごころつく前から学校に行くことは当然のこととされ、休んだとたんに大問題になってしまう。大学の名前や偏差値が絶対化して、進学のために多額の財産をつぎこむ人もいれば、実家に資力のない学生は、自身が奨学金という名前の多額の借金を背負って進学している。不登校の当事者運動では、学校を絶対化する価値観のことを「学校信仰」と呼んで、不登校を否定視する世間の見方と対峙していた。

ただ、そこでフリースクールを絶対化して、「フリースクール信仰」のようにしてしまうと、たちまちカルトと化してしまう。たとえば、東京シューレにおける性暴力事件が、事件の隠蔽とも言える事態を引き起こしてきたのも、対抗文化の側が、自分たちの正当性を守るために問題を抑圧した面があると言えるだろう。

ただ、そういう自問自答をしていると、たとえばメディアには取り上げられにくい。メディアでは、わかりやすい図式、わかりやすい当事者の語りがもてはやされる。当事者運動の言説は、よほど自覚的に注意深くなければ、たやすくカルト的なものになってしまう。

統一教会のような団体を、「向こう側」の存在として、いわば「悪魔化」してバッシングするのはたやすい。しかし、カルトを問うことができるのは、自分のいる場を絶対化せず、常に自分の足下を問う姿勢ではないだろうか。


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