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書評:『「ひきこもり」から考える』

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支援者でも、教員でも、研究者でも、この人は尊敬できるなと思える人というのは、その対象とする人とのかかわりのなかで、ままならないことに揉まれて磨かれている人のような気がする。ゴツゴツとした石が川で転がりながら磨かれて、丸みを帯びているような感じというか。そういうおまえ自身はどうなのかと問われれば、かかわる人を自分の狭い了見で決めつけるようなことはしたくないと心がけてはいるが、それができているかどうかは、たいへん心もとない……。 本書の著者、石川良子さんは、「ひきこもり」の研究者でありながら、当事者に共感するところと、わからないところと、そこにあるもやもやとを、ごまかさずに考えてきた人なのだと思う。本書は、石川さん自身が研究者として当事者とかかわるなかで、揉まれつつ、磨かれていくプロセスを明らかにし、そこから見えてきたことを、支援に活かすエッセンスとして抽出した本ではないか、と思う。それはまた、この20年ほどのあいだに交わされてきた、「ひきこもり」をめぐるさまざまな論議や葛藤のなかで磨かれてきたものでもあるだろう。 著者は、「ひきこもり」のコアにあるのは〈動けなさ〉であり、生きることへの実存的な問いであるという。そのとき、周囲に問われるのは、その聴く耳のあり方だ。それはまた、聴く側の価値観が根本から問われているということでもあるだろう。 「ひきこもり」の当事者は、周囲から否定的にまなざされるなかで、実存的な問いを深めざるを得ないところがある。それに対して、周囲がはなから持っている自分の価値観をそのままにしていては、本人の話を聴くことができない。聴いているようで、自分の聴きたいようにしか話を聴いていないし、見たいようにしか相手を見ていない。周囲の人たちに自分たちの持っている価値観を問い直すスタンスがあって、初めてそこで対話が可能になるのだろう。それは上っ面の技法などではない。 また、ここで抽出されたエッセンスは、「ひきこもり」にかぎらず、さまざまな文脈に活かせるものでもあるだろう。支援にかかわる人にとっては耳の痛い本だろうが、だからこそ、多くの支援者(「ひきこもり」支援にかぎらず)に読んでほしいと思う。 もう少し言えば。 本書を読んでいても思うのだが、「ひきこもり」をめぐる論議や葛藤には、デジャブ(既視感)がある。先行して、不登校をめぐる論議や葛藤があるからだ。不登校には...

書評:『「不登校」は心の問題なのか?』

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私が統括をしていた 不登校50年証言プロジェクト では、さまざまな方にお話をうかがったが、そのなかでも一番問題意識が近いというか、感覚的に近いと感じていたのは、中島浩籌(なかじま・ひろかず)さんだった。その中島さんが『「不登校」は心の問題なのか』という本を出されたというので、さっそく拝読した。 中島さんは、高校の教員をしていたものの、そこから逃げ出して、フリースクールや予備校などを通じて、不登校経験者と関わってこられた。中島さんが一貫してテーマとしているのは、「逃げる」ことだ。 不登校はある時期から「怠け」だとか「逃げ」だとか言われるようになって、「心の問題」とされてきた。いまでは、かつてほど病理のように扱われることはなくなってきたが、いまだに心の問題とされていて、本人をどうにかしないといけない問題だとされている。しかも、不登校への偏見は薄まったようでいて、かえって「自立」のためにがんばらないと認められないような構図になって、ますます「逃げる」ことは難しくなっている。 不登校しても社会的に自立できるだとか、そのためには、きめこまかな切れ目のない支援が必要だとか言われているけれども、そんな支援の網の目からも逃げ出したくなる。しかし、いまや不登校の子どもにかぎらず、すべての子どもに対して個別最適化された教育が目指されており、評価のまなざしはどこまでも隙なく張りめぐらされようとしている。不登校したからといって、そのまなざしから逃げられるわけではなくなってしまっている。まったく、げんなりぐったりしてしまうが、教育機会確保法などでは、フリースクール関係者が進んでそれを望んでいったところがあった。 もちろん、これまでのような画一化された学校が正しいというわけではない。しかし、自主性や多様性を求めた運動が、なぜ人材育成のための道具のようになってしまったのだろうか……。 人によっては、だからこそ、そこできちんと対峙して闘うことが必要だというだろう。けれども、意識的に闘うというよりは、どうしても逃げたくなってしまう、という感覚のほうが、不登校の当事者のリアリティに近いのではないだろうか。 そもそも、「逃げる」ことは悪いことなのか。中島さんは、哲学者のドゥルーズを引きながら、「逃げる」ことは創造的な行為なのだという。「逃げる」は、フランス語ではフュイールfuirといって、「漏れ出す」と...

書評:『教育は社会をどう変えたのか』

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桜井智恵子『教育は社会をどう変えたのか』(明石書店2021)を読んだ。紹介をかねて、書評というか、勝手な感想を書いておきたい。 いまの社会では、「不登校」にしても、「子どもの貧困」にしても、それを生み出している構造の問題を問わずに、排除された側を個別に「支援」するということが当然になっている。しかし、それでは構造的暴力はますます強化され、問題は深刻さを増していく。しかも、「支援」された側は、自分ががんばれば克服できると思い込まされ、克服できなければ自分の能力や努力の不足のせいだということになってしまう。また、「当事者」ではない人たちも、同じ構造のなかにいて苦しんでいるのに、それはあの人たちの問題だと「他者化」してしまっている。つまり、問題が「個人化」されている。 教育にしても、福祉にしても、根本的におかしなことになっている。教員も福祉関係者も、評価のまなざしにさらされ、競わされ、常に自己コントロールが求められ、成果主義に追い立てられている。フリースクールなどにおいては、教育機会確保法において顕在化したように、むしろ進んでそうした仕組みを求めていったところがあった。いったいなぜ、そんなことになるのか。これは、どういう社会的背景から生じているのか。 それを問うには、現象化している個別の問題だけを見るのではなく、かといって、ヘリコプターで上空からながめるように俯瞰するのでもなく、現場で具体的に起きていることを踏まえつつ、それを生じさせている構造をひもといていくことが必要だろう。本書の著者は深く広い視座から、硬軟おりまぜつつ、ぶれない軸をもって、絶望的な状況に目をこらしつつも、希望に向けて書いている。 たとえば、著者は次のように言う。 時代のデフォルトは「個人で生き延びろ」(個人化)である。子どもの貧困問題についても、解決の方法として学習支援が注目されたため、子どもの将来に大きく関わっている雇用や深刻な不平等の改善という争点は周縁化され、脱政治化されてきた。現代の市民社会において、人々の生存の軋轢は未解決のままとり残されている。 困窮している子どもや市民は「支援」を必要とするというのが暗黙の前提とされている。生きづらさを「支援」によって和らげるとか、孤立しがちな人々の絆を「支援」で支えるといった介入手段として、「支援」というキーワードは資本の再編成に利用されている。 著者は...

いじめから「逃げる」ことはできるのか?

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だいぶ以前、『教育と文化』という雑誌に、いじめをテーマに原稿を書いたことがあった。「逃げてもいい」という声が大きくなるなかで、ふと思い出して、了解を得て転載させていただくことにした。 * * * いじめから「逃げる」ことはできるのか? 『教育と文化』第73号(2013年10月25日/教育文化総合研究所編/アドバンテージサーバー) ●「いじめから逃げて」は届くのか 「自殺するくらいなら学校なんて行かなくていい」 「いじめられていたら逃げていいんだ」 「学校の外にも生きていく道はある」 私が関わってきたフリースクールや不登校の親の会などでは、ずいぶん前から、いじめに対して、こうした言葉がくり返し語られてきた。いじめがエスカレートするのは、そこから逃げられないからだ。いじめられていたら、何はともあれ、逃げたほうがいい。私自身も、そのように語ってきた。 大津のいじめ自殺事件の報道に際しては、評論家やコメンテーターなどからも、こうした発言が多く聞かれた。それは「うつの人にがんばれと言ってはいけない」というのと同じような、ある種、常識化した認識になってきているとも言えるだろう。しかし、にもかかわらず、いじめで自殺に追い込まれたり、自殺までいかなくとも、学校を休むこともできず、苦しんでいる子どもは跡を絶たない。「いじめから逃げて」という言葉は、いま、いじめで苦しんでいる当事者に届くのだろうか? 私自身のささやかな経験を思い起こしてみると、私は1986年にいじめを苦に自殺した鹿川裕史くんと同年代だ。当時、私自身、暴力に苦しんでいた。私の場合は、集団によるいじめではなく、いわゆるヤンキー連中に暴力をふるわれていたということだったが、それでも、そのことを先生や親に相談することはできなかった。肋骨にヒビでも入ったのか、ずっと胸が痛いのをガマンしたまま学校に通っていたし、突き飛ばされて頭でガラスを割ってしまったときでも、「悪ふざけをしてただけです」と自分から先生に釈明していた。なぜ、相談できなかったのだろう……。心配をかけたくない、屈辱を自分でも認めたくない、相談して形式的に解決しても意味がないなど、いろいろ思いはあったのだろうと思う。しかしそれ以前の問題として、不条理な経験に遭ったとき、人がそれを言葉にできるのは、ずっと後になってからではないか、と思う。 そうしたなか、鹿川くんの事件がマ...

安心と安全をめぐって

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あちこちで、「安心・安全」が第一だと言われる。「安心・安全」は、どんな場合においても、誰にとっても必要なものだろう。しかし、よく考えてみると、安心と安全は相反してしまう場合もあるのではないか。たとえば、新型コロナウィルスをめぐって、感染予防策=安全対策が徹底的に求められている。しかし、それで安心かといえば、そうはならない。それは、何よりもそれで安全が確保されるとはかぎらないからだが、まわり中にウィルスがあるかもしれないと疑心暗鬼にならざるを得ないため、他者が信頼できなくなっているからでもあるだろう(このあたりは、 以前にも書いた )。安全を求めても、安心にはつながっていない。むしろ安全を求めるほど、他者は疑わしくなり、マスクをしているかどうかなど監視の目は強まるし、逆に言えば、監視されているような息苦しさがあるから、炎天下の屋外で、人との距離が充分あっても、マスクを外せない人も多い。 ●場の安全と安心は コロナ対策はさておくとして、たとえば、 東京シューレにおける性暴力事件 が明らかになったことで、フリースクールなどにおいても、スタッフの倫理規定や研修、 セーフガーディング など安全対策の必要性が認識されるようになった。もちろん、それは必要なことで、これまで足りていなかったことでもある。性暴力だけではなく、いじめ、虐待、ハラスメントなど暴力は防止すべきで、場を運営するうえでの安全配慮は義務として求められるものだ。 しかし、安全のための約束事やルールは必然として、それを守る手立てとして、管理や監視を強めるばかりでは、安全は確保できても、安心にはつながらない。誤解をおそれずに言えば、かえって信頼感や安心感が損なわれてしまうことにもなりかねないのではないだろうか。また、あってはならないこと、起きてはならないこととして予防をはかるだけでは、いざ事態が起きたとき、きちんと向き合うことが難しくなってしまうようにも思う(なお、セーフガーディングの取り組みは、事態が起きたあとのことも含め、たいへんていねいに考えられている)。 当然のことだが、管理や監視は予防には役だっても、起きた事態に対して、その傷や信頼を回復することには役立たない。暴力は安全を壊すだけではなく、信頼や安心をも壊してしまう。しかし、その暴力を寛容度ゼロで力で抑え込むだけでは、暴力の再生産になってしまう。修復的対話に...

#学校ムリでもここあるよ キャンペーンの中止を求めます。

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#学校ムリでもここあるよ キャンペーンの中止を求めます。 2015年に内閣府から過去40年間の18歳以下の日別自殺者数が発表され、夏休み明けなど長期の休み明けに顕著に自殺者数が多いことが明らかになりました。それ以降、フリースクールなどの関係者が夏休みの終わりごろから居場所の無料開放などの取り組みを始め、それが「 #学校ムリでもここあるよ 」のキャンペーンにつながっていきました。 私自身がかかわっているフリースクールにおいても、おそらくは他団体よりも早くから、こうした取り組みをしてきました。学校でも家庭でもない第3の居場所の取り組みは大事なものだと思います。しかし、数年前より、このキャンペーンはやめるべきだと私は考えてきました。以下、その理由を述べます。 1.マスメディアの影響 もともとは地道な取り組みだったものが、マスメディアで大きく報道されるようになり、年々、エスカレートしていきました。周囲への注意喚起であれば、こうした報道にも意味はあるように思います。しかし、私が目にしたかぎりでは、主として子ども本人に向けて「死にたいほどつらいなら逃げてもいい」といったメッセージが、くり返されてきたように思います。渦中にある子どもにとっては、こうしたメッセージが何度もくり返されるのは、むしろしんどいのではないか、ややもすれば、それはかえって希死念慮をあおることにもなりかねないのではないかと懸念しています。 2.自殺者数の増加 キャンペーンを開始後、むしろ子どもの自殺者数は増えています。キャンペーンによってあおられた結果だと短絡するつもりはありませんが、少なくとも、キャンペーンは功を奏していないと言えます。また、主催者側から、キャンペーン開始後に自殺者数が増加していることについて、それをどのように受けとめ、キャンペーンを見直したのかという見解を、私は目にしていません(見過ごしているのかもしれませんが)。 3.短絡化しすぎているのではないか この時期にかぎって、自殺に焦点をあててキャンペーンすることはやめるべきだと思います。長期の休み明けに子どもの自殺者数が顕著に多いことは統計で明らかになったわけですが、その事態に対する取り組みは、このキャンペーンのようなかたちが望ましいのでしょうか。このキャンペーンは、自殺と不登校の問題を短絡化しすぎているように思います。くり返し申し上げれば、学...

子どもの自殺増加と夏休みの問題について

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子どもの自殺が増えている。2020年の小中高生の自殺者数は499人、前年から25%増え、統計の残る1980年以降では最多となった(厚生労働省「自殺の統計」)。とくに女子の増加が顕著で、前年比66%増の219人となっている。文科省の自殺予防に関する有識者会議は、コロナ禍における学校の一斉休業などが影響しており、とりわけ家庭に居場所のない子どもたちが追いつめられた可能性を示唆、「家庭が子どもを支える最重要の環境として機能しないばかりか、子どもの安全を脅かすことにもつながっている可能性すらある」との見方を示した。 また、少し前になるが、2015年の自殺対策白書では、過去40年間の18歳以下の自殺者を日別に集計した結果、9月1日や4月初旬など長期休み明けに自殺者が突出して多いことが示されている。学校と子どもの自殺には密接な関係があると言える。では、こうした事態に対し、どうしていったらよいのだろうか。 たとえば、フリースクールなどの関係者は、毎年、夏休み明けに「学校ムリでもここあるよ」というキャンペーンを実施している。不登校という文脈からすると、学校に行きたくない子どもにとって、長期の休み明けが死を思うほど追いつめられる時期であることはたしかだ。そういう意味では、学校の外にも子どもの行ける場所がある、学校の外でも生きている子がいるということを可視化することに意味はあるだろう。しかし、コロナ禍で明らかになったのは、むしろ家庭がムリで、かろうじて学校が居場所になっていた子どもにとっては、学校の長期休みこそが追いつめられる要因となったということだろう。この数年、夏休みの終わりごろになると、マスメディアを含めて大々的にキャンペーンが実施されてきたのだが、私はこのキャンペーンはやめるべきだと思っている。 ●SOSを出せずにいるのは 一方、先述の文科省の有識者会議は、子どもにSOSの出し方を教育すべきだと提案している。たしかに、助けを求めることは大事にちがいない。学校現場での取り組みは重要だろう。しかし、その教える側である教員はSOSを出せているだろうか。SOSを出せず、自力でがんばらないといけないと呪縛されているのは、教員も同じではないか。まず必要なのは、教員みずからが自力で解決するという呪縛を解くことではないか。そのためには、教員への研修も必要かもしれないが、それ以前に教員の労働状況...